ワールドカップでドイツ・スペインを撃破して決勝トーナメントに進出し、大盛り上がりを見せたサッカー日本代表。その日本代表を率いたのは、森保一(もりやすはじめ)監督です。
「森保監督とはどのような人なの?」「森保監督の経歴が知りたい」という疑問を持っている人に向けて、この記事では
- 森保一のプロフィール
- 森保一の経歴
について解説していきます。
この記事を読むことで、森保監督について詳しくなり、今後のサッカー応援にもより熱が入るようになると思います。ぜひ、最後まで読んでみてください。
森保一のプロフィール
ここでは、森保監督の「出生」「愛称」「人格」「家族構成」についてそれぞれ解説していきます。
森保一の出生
森保一は、1968年8月23日に静岡県掛川市に生まれました。幼少期は父親の仕事(造船関係)の影響で愛知県、神奈川県、佐賀県と転々としています。小学校1年生の時に、長崎県長崎市に定住するようになりました。
森保一の愛称
高校時代の同級生からは「ポイチ」という愛称で呼ばれていました。サッカー大会の公式記録などで「森 保一」とよく勘違いされており、それを見た同級生が言い始めたことがきっかけです。
森保一の人格
日本代表チームをまとめ上げていることから、かなりのリーダーシップ力を持っている人間ではないでしょうか。
マツダ時代、チーム編成責任者の今西和男は「今まで見てきた人の中で特にリーダーシップを持ち合わせる人物」の一人として森保一の名前を挙げています。
また、「森保監督だからこそ付いていく」という代表選手の声もあり、選手からも信頼される人望の厚い人です。
森保一の家族構成
森保監督の家族構成は、奥さんと息子3人の5人家族です。1990年に、高校時代の同級生である由美子さんと結婚しました。お子様は全員サッカー選手を経験している「サッカー一家」です。
長男の翔平さんは、U-18日本代表に選出されたこともありますが、2015年に引退を表明。
次男の圭悟さんは海外リーグでプレーしていましたが、2019年に引退を表明。サッカー選手を引退した後はYoutuberとしてサッカーを盛り上げています。
三男の陸さんは、現在大学生でアメリカにサッカー留学中です。
森保一の経歴
森保監督の学生時代から指導者時代までの経歴をそれぞれ解説していきます。
学生時代
長崎市立深堀小学校時代
小学5年生で本格的にサッカーを始めた森保少年。6年生時、第4回全日本少年サッカー大会にサッカークラブチーム「土井首SSS(土井首サッカースポーツ少年団)」のGKとして出場しました。
長崎市立深堀中学校時代
深堀中学校にサッカー部が無かったため、隣町の中学校の部活に参加していたもののイジメなどの嫌がらせを受けていました。2年生時に父親が深堀中学校にかけあって、サッカー部が設立。長崎市にある造船場の裏手駐車場で使用許可を取って、練習を始めました。3年生になるとグラウンドが使えるようになり、地元大会で次々と優勝し、長崎日本大学高校から特待生で勧誘を受けます。
長崎日大高校時代
強豪校の長崎県立国見高等学校に行きたかった森保少年でしたが、受験への姿勢が不真面目だったことから父親に反対され、長崎日本大学高等学校に進学します。
攻撃的なMFとして、長崎選抜で山梨国体に参加したことはあるものの、国見高校や原商業高校が全盛期だったためチームとして全国大会に出場することはできませんでした。
現役時代前半
1987年に日本サッカーリーグ(JSL)1部のマツダ(現・サンフレッチェ広島)のサテライトチーム、マツダSC東洋クラブに入団。1989年にJSL2部で初出場を果たすと、先制点及び2点目を挙げます。1991年にマツダとプロ契約を結び、JSL1部への昇格に貢献しました。
森保選手は、1992年4月に日本代表に初招集されました。同年5月のアルゼンチン戦で先発メンバーに抜擢され、初出場。ボランチとして脚光を浴びるようになります。1993年にはW杯アメリカ大会アジア最終予選に出場し、「ドーハの悲劇」を経験しました。
同年6月のJリーグ開幕後は、名古屋グランパス戦でJリーグ初ゴールを決めます。1994年は、サントリーシリーズでサンフレッチェ広島の優勝に貢献。しかし、1995年7月に右足首関節脱臼骨折の怪我をすると、それ以降は日本代表から遠ざかりました。
現役時代後半
1998年に京都パープルサンガにレンタル移籍をした森保選手でしたが、1999年にサンフレッチェ広島に復帰。広島の選手として初めてJリーグ通算200試合出場を達成しました。しかし、エディ・トムソン監督からの評価が低く、森崎和幸の台頭でメンバー入りできなくなります。
2001年にヴァレリー・ニポムニシに監督が代わったものの、ケガのため十分な出場はできず、2002年にベガルタ仙台に移籍。翌年、ベガルタ仙台のJ2に降格と同時に戦力外通告を受け、2004年に現役引退を表明しました。
指導者時代
クラブチーム時代
- 2004年:サンフレッチェ広島強化部のコーチに就任。
- 2005年2月:U-19サッカー日本代表コーチを兼務することを発表。
- 2006年11月:AFCユース選手権で、U-19日本代表コーチとして準優勝を飾る。
- 2007年:FIFA U-20ワールドカップ日本代表にコーチとして参加。
- 同年9月:サンフレッチェ広島トップチームコーチに就任
- 2010年:アルビレックス新潟ヘッドコーチに就任。
- 2012年:サンフレッチェ広島のトップチーム監督に就任。J1年間優勝に導く。(日本人の新人監督が1年目で優勝するのは松木安太郎以来2人目)
- 2013年:J1連覇を達成。
- 2014年:3連覇を狙うも、8位でシーズン終了。
- 2015年:再び、サンフレッチェ広島をJ1年間優勝に導く。
- 2017年:成績不振のため、サンフレッチェ広島の監督を辞任。
U-24日本代表時代
- 2017年10月:2020年東京オリンピックを目指すU-24監督に就任。
- 2018年:FIFAワールドカップロシア大会のコーチに入閣し、W杯ロシア大会16強進出に貢献。
- 2021年8月:東京五輪で予選リーグを全勝したものの、決勝トーナメントでは攻撃力が停滞。最終順位は4位でメダル獲得を逃す。
W杯日本代表時代
- 2018年7月:U-24代表監督を兼任したまま、W杯日本代表監督に就任。
- 2019年:アジアカップとE-1サッカー選手権で準優勝に導く。コパ・アメリカ大会は、予選敗退。
- 2021年:W杯カタール大会最終予選でオーストラリアとのアウェイ戦に勝利し、本大会出場決定。
- 2022年:E-1サッカー選手権優勝。W杯カタール大会でドイツとスペインを破り、ベスト16に導く。
まとめ
今回は、サッカー日本代表の森保一監督のプロフィールや経歴について解説しました。
森保一が現役時代に体験した「ドーハの悲劇」ですが、今回のワールドカップでは監督という立場で「ドーハの奇跡」として雪辱を果たしました。日本代表監督を続けるかどうかは現時点で決まっていませんが、これから先の森保監督の動向にも注目しながらサッカー日本代表を応援していきましょう!